公許の遊廓

吉原は、百万人都市・江戸のなかに、幕府(政府)公認で創設された、江戸で唯一の公に許された遊廓であった。江戸時代の初期、1600年頃である。はじめ江戸城の近くである日本橋人形町に創られたが、1657年に起きた明暦の大火という大火災を機に、郊外の浅草に移転した。一般に吉原といえば、この浅草に出来た新吉原のことを指す。

遊廓の中でも、京都の島原・大坂の新町・江戸の吉原は、「三都の遊廓」と呼ばれた、大都市にある著名な遊廓であったが、首都の江戸(東京)にあった吉原は、社会的にも、経済的にも、文化的にも、甚大な影響を及ぼした点において、二都の遊廓とも桁違いの、別格の存在であった。

もとより遊廓は、非公認の花街とは一線を画する。これらの花街のことを、江戸時代には「岡場所」と言った。岡場所は遊廓とは異なり、都市にも各地にも、非常にたくさんあった。また、特に近代以降に数多く創られ、それにより「フジヤマ、ゲイシャ」のイメージが形作られた。

廓芸者と町芸者

芸者とは、幕府公認の遊女のいる遊廓において、芸のみを披露していた人たちのことである。廓芸者とも言う。非公認の花街「岡場所」にいたのは、芸者と自称していた人たちであり、俗に、廓芸者と区別して「町芸者」と呼ばれていた。

現在の芸者衆

昭和三十三年(一九五八)の遊廓制度の廃止に伴い、廓芸者はほとんどいなくなった。みな子姐さんが亡くなったことで、吉原芸者は全滅した。かろうじて京都の島原には数名残っているが、その島原芸者を除き、現在活躍している芸者さんは、幕末から近代以降に創られた、いわば新興の花街の芸者衆である。ただし、その芸者衆も減りつつある。特に、三味線、鼓などの鳴り物ができる芸者さんは、非常に少ないようである。

江戸後期の吉原仲之町の景色。 幕末の花街のお座敷の光景。

吉原芸者

江戸(東京)で公に芸者と呼べるのは、吉原遊廓にいた吉原芸者(廓芸者)のみであり、その芸者は「色恋」から最も遠い存在であった。吉原に来た旦那衆は、遊女屋(明治以降「貸座敷」、戦後は「特殊飲食店」と呼ばれた)に行く前に、引手茶屋というお座敷にあがった。この江戸時代から続く遊廓のしきたりが、吉原では戦時中までは続いており、芸者はその茶屋(お座敷)で芸のみを披露する存在だったのである。

芸者と色恋にまつわる誤解

お座敷芸は、花街のお座敷の中で披露されていた芸である。そんな「色恋」を連想させる芸であり、且つまた、お座敷の中でしか触れることができないものであるため、現代では、遠い存在、あるいは、触れてはいけない禁断の芸であるかのように思われている観がある。

そこには1つの大きな誤解がある。それは、明治時代以降、多くの花街が創られ、海外から「フジヤマ、ゲイシャ」と日本の象徴のように呼ばれた「ゲイシャ」が多数あらわれたことである。花街は、公に認められていた遊廓「吉原」とは異なり、より近くて気軽に行ける歓楽街として、非公認に創られた街である。遊廓には花魁つまり遊女がいたので、芸を売るだけの芸者が存在したが、花街には遊女は置けず、明治以降は公娼の廃止により、遊女という存在自体が認められなくなったので、芸者の名のもとに売春を行う者もいた。芸者と「色恋」との結び付きが強まっていったのである。

芸の広さと奥深さ

遊廓には一流の遊客が来るので、どのような芸でもできる芸域の広さと、耳の肥えた遊客を満足させるだけの、芸の奥深さを兼ね備えていなければならなかった。そのため、何年もかけて毎日稽古をして、三味線、鼓、太鼓、唄などの、すべての芸の試験に受からなければ、廓芸者にはなれなかった。

芸者の芸とは

芸者になるために、二つの修行期間を経て、二度の試験を受けた。まず、「しこみっ子」と呼ばれる期間があった。この時期には、お座敷へ出ることはない。芸者屋で芸を仕込まれ、また長唄など各種の芸道のお師匠さんのところへ行って修行に励む。次に、「半玉」の期間。しこみっ子の時にみっちり仕込まれた芸を、先輩の芸者衆の前で披露して、その試験に受かった時にはじめて「半玉」のお披露目ができる。芸者の揚げ代(料金)を「玉」と言う。その半額をもらったことから「半玉」と呼ばれた。お座敷にも出られるようになる。そこでお酌をするので「お酌さん」とも言う。京都では「舞妓」と呼ばれている。

みな子姐さんが左褄をとっている。「芸は売っても身体は売らない」という意味の身体表現である。反対に花魁は右褄をとっていた。 16歳の夏。半玉最後の年。年末に、一本(芸者)になった。 ※半玉:芸者の見習い。お酌さんともいう。玉代(代金)が芸者の半分だったため。これは関東での呼び方で、京都では舞妓という。

お座敷芸

日本で最大の娯楽地だった吉原には、全国から多くの人々が集まってきた。娯楽の多様化していない江戸時代には、吉原遊廓とその近所の芝居町が最大級の遊び場であり、それゆえ「二大悪所」などと呼ばれていた。いつの時代も、為政者側から見ると「悪」の場所、遊ぶ側からすると「良」の場所こそ、文化を生み出す土壌となる。吉原は、江戸時代の中期から後期にかけて、小説、絵画、演劇などに多くの話題や題材を提供し、それらのいわば日本文化を支え続けた、「文化の発信源」だったのである。

現代で言えば、一流の文化人やアーティストが、吉原にやってきては作品を生み出した。蔦屋重三郎、山東京伝、歌麿など、数え上げたらきりがない。そんな様々な人が出入りする吉原で、お座敷芸は育まれたのである。歌舞伎で人気の長唄や、巷で流行る都々逸に、踊りに遊びに手妻(手品)まで、あらゆる日本文化が凝縮された場所、それがお座敷であり、そこでの芸がお座敷芸であった。

お座敷芸の継承

残念ながらお座敷芸は、江戸時代の小説に文章で書かれ、浮世絵として絵で描かれることはあっても、ビデオカメラのない時代だったので、現代では、遊びはもちろん、唄も、踊りも、音楽も、どのように唄われ遊ばれていたのかを知ることはできない。

また、唄や踊りなど、今でも先生やお弟子さんが大勢いる伝統文化はあるが、実際にはどのように唄われ踊られていたのか、つまり、すべての芸が独立して存在していたのではなく、むしろすべてが結び付いていて、それだからこそ面白かったということは、それを知る人がいない今、教えることも教わることもできない。早い話が、たとえば歌舞伎で流行した音楽には、唄も踊りも付いていて、それがまたすぐお座敷芸にされ、そこで目の肥えた旦那衆たちに練り上げられ、これまた評判を呼んでいき、浮世絵、小説に描かれたり、落語の所作に取り入れられたりという風に、あらゆる芸は有機的に結び付いていたのである。

日本文化の根本

ただしお座敷芸が、遊廓または花街の「お座敷」に行かなければ触れられない芸、つまり「遠い存在」と感じさせるものであることは確かなことである。では、そもそもそれを知る必要はあるのか、そんなものを知る必要はないのでは? 実際にほとんどの現代人がそう思っているのではなかろうか。否、決してそんなことはないのである。

お座敷芸は、日本文化の根本をなすものであり、知る価値のあるもの、むしろ日本文化の理解に必要不可欠なものであるといえよう。また、伝統芸がともすれば退屈に思われているのは、現代ではそれぞれの芸に別々に接する機会しかなく、お座敷のような融合した芸を見る場がないからといえよう。

「鳴り物(楽器の演奏)が好き。」お姐さんはこう言っていた。なかでも一番好きだったのが三味線。彼女の三味線は一流だった。